オークヴィレッジとは

オークヴィレッジの歩み「始まりの前の物語」

高山市で生まれ育った二代目社長・上野英二と、1974年に高山市に移住してきた初代社長・稲本正。それぞれの歩みと記憶から、オークヴィレッジの誕生に至る激動の数年間を振り返ります。

1972年、「山小屋の会」

「私が入社した当時、オリジナル・ファイブと呼ばれた5人の創業メンバーはみんな揃っていて、その頭文字を取った”O・F会議”で会社のことは何でも決めていましたね」。
二代目の代表取締役社長として、2015年よりオークヴィレッジを率いる上野英二が入社したのは1985年のこと。創業から10年以上が経っていました。大学を卒業し、名古屋の建築事務所で建築士として働いていた上野にとって、当時のオークヴィレッジの様子はとても不思議な雰囲気だったと言います。
「第一印象は『これで商売ができるのかな』という感じ。名古屋ではユニフォームを着ていたけれど、ここの人はポロシャツだったりTシャツだったり、思い思いの服装でヒゲもぼうぼうの"自由人"。普通の会社じゃない雰囲気なのですが、それがとても魅力的に映りました。オリジナル・ファイブの皆さんは全員が敷地内の家に家族と住んでいて、その子どもたちもいっぱいいて、ここから学校に通っていました。オークヴィレッジの原風景がしっかり残っていたのです」。
1985年といえば、日本では国際技術博覧会「つくば万博」が開催され、ファミコンの「スーパーマリオ」が空前の大ヒットとなり、公社の民営化が進んでNTTやJTが誕生し、バブル景気が始まろうとしていた頃です。そんな時代でも、オークヴィレッジでは木で建物や家具を造り、畑を耕し、ヤギや羊を飼って自給自足を目指す「緑の工芸村」が実践されていました。その始まりは、高山郊外の納屋で創業した1974年から、さらに数年前に遡ります。

1960年代の日本は、1964年の東京オリンピック、東海道新幹線の開通、「三種の神器」など高度経済成長期のまっただ中にあり、先進国の仲間入りを目指して突き進む日本の政治、経済の盲目的な上昇志向は一方で社会の歪みを生み出していきました。欧米諸国のベトナム戦争反対運動に端を発した若者と政治が対立する学生運動は世界的な流れとなっていましたが、日本でも東京の大学を中心に日米安保条約反対闘争、沖縄返還など学園紛争が激化。しかし、10年余り続いた熱病は60年代末期から一気に沈静化に向かい、その先にあったのは1970年の大阪万国博覧会。科学技術の可能性に幻想を抱き、経済成長を謳歌する人々の姿でした。激しい闘争に明け暮れた学生たちは、結果として社会の変革をもたらすことはできず、人々は何ごともなかったかのように経済成長の恩恵に浸る日々。東京の大学生の間には白けた空気が漂い始め、東京六大学の一角、立教大学の学生や教職員たちもやるせない無力感の中で70年代を迎えていました。
政治的な動向から距離を置き始めた彼らは、大量生産・大量消費がもてはやされる時代に疑問を抱き、また科学技術の進歩が本当に人間を豊にかるのかと考えるようになっていきます。当時、立教大学で原子物理学の教員として原子力発電を研究していた稲本正もその一人でした。

「私は大学で物理学を学び原発の安全性の研究をし、卒業後も研究室に残って実験助手の仕事をしながら研究を続けていました。理論でも、実験でも研究を重ねてわかったことは、原発の『絶対安全ではない』ということ。人が管理・操作するシステムでは必ず想定外のことが起こり、一度そうなれば取り返しのつかないことになる。当時、原子力は最先端の科学でしたが、科学がいかに進歩しようとそれだけでは人を幸せにすることはできないと気づいたのです」。
稲本と同じように、科学や教育など自分たちが信じ、追求してきたものの可能性に疑問を抱き始めた教職員や学生が自然に集まり、人間性の回復、自然との共生などを論じ合うようになりました。その中で、自然の中の拠点づくりを目指した「山小屋の会」が生まれ、稲本が参加。
1972年、長野県大町市から山奥に入った若栗峠に200坪の土地を借りて自分たちの手で山小屋を建てるプロジェクトが始まったのです。大学の教職員やOBを中心とした10数名のメンバーは生活する東京から現地に通い、草を刈り、道を造り、設計や材料の手配などで1年が過ぎ、2年目からは廃屋を改造した宿泊施設も造り本格的な建設が始まりました。この時、立教大学の学生だった佃正寿、庄司修、下田恒平、そして稲本の弟である稲本裕という、後にオリジナル・ファイブとなる面々が参加。秋が深まる頃、2年がかりで山小屋は完成したのです。

この山小屋造りを通して、稲本らは森林業、建築、大工、そして木工とはどういうものなのかを身を以て教わりました。「2年の歳月の中で、木という存在を自分なりの価値観で見据え、自然との共生という奥深いテーマの入口に立つことができました。そして山小屋完成のお祝いの会で、ずっと世話をしてくれていた越山さんという大工さんから『君たち筋がいいね、うちの弟子より段然いいよ。庄司君なんて名工だ』って褒められたのが私たちの道を決定づけた。このメンバーとなら一緒に工芸村をつくり、木を使ったモノ造りを一生の仕事にしていけると確信したのです」。そして稲本はプロジェクトのリーダーやメンバーたちと議論を重ねます。その時、稲本らが思い描いていたのが「自給遊園」と名付けた、持続可能な自給自足の村。国産材を材料にした建築や木工製品を都会で販売することを生業としながら、自分たちの森を持って木を育て、田畑で農業を行い、水もエネルギーも自分たちで創り出す。後の「緑の工芸村」は、この時期に構想が固まっていきました。

メンバーたちは「自給遊園」構想には共感しますが、若栗峠一体の植生は木工に向いていないことがわかり、新たな土地を探す必要に迫られました。また、実際に家族で移住をする、大学職員という安定した職を捨てる、という選択をすることになると多くのメンバーが躊躇し、一年近くの議論の末、リーダー格をはじめ多くのメンバーが離脱。稲本と行動を共にしたのは佃正寿、庄司修、下田恒平、稲本裕、藤門宏の5人になっていました。

1974年、飛騨高山へ

「私が高校生の頃、オリジナル・ファイブは高山にやってきました。当時はオイルショックから高度経済成長期の終焉を迎えた時代。高山でも家具メーカーの多くが業績不振となり、リストラの声も聞こえてくるほどでした。『高山の家具業界が危機的な状況だというのに都会の若者が高山に来て家具工房をやるなんて、なんという無謀なことを』と言われ、地元では話題になっていました」。
稲本らが高山に来て間もなく、都会の若者の挑戦は新聞などで取り上げられ地元で知られることとなります。当時、高山市内の高校に通っていた上野は、まさか10数年後に自分がつながる人たちだとは思わず、高校卒業後、建築家を目指して名古屋の大学に進学したのでした。

稲本らが移住先に選んだのが、岐阜県高山市。木でモノ造りをして生計を立てていく場所として、これ以上は無いという場所でした。
「東京近郊は土地が高すぎるし、優良な森林がない。伝統的な木工としては京指物と江戸指物があるけれど、建築までトータルに見たときに『飛騨の匠』が思い浮かんだのです。豊かな広葉樹と針葉樹に恵まれ、奈良時代から続く大工の伝統があり、建築から小物まで豪快さと繊細さを兼ね備えている。私たちには理想的な場所だと思いました。また、私は富山県の出身ですが、医師をしていた父が高山市の病院に赴任していて、地の利も得られるという見込みもありました」。高山への移住にあたり、稲本らはまず受注生産の家具工房から始めると決めていました。建築には多額の資本がかかりますが、受注生産なら注文が入ってから材料を買えばいい。まず生計が成り立つ状況を確立し、その後に事業を広げていけばいいと考えたのです。

そこで、木工を基礎から学ぶために全員で一年制の飛騨高等技能専門学校に入学。かつては職業訓練校とよばれ中卒・高卒生が対象だったので英語、国語、数学などのカリキュラムもありましたが、彼らはこれらの教科を免除してもらい、その分、実技の特訓を受けられ最短距離で家具職人になれると思っていました。
「担任となった秋松哲さんは職人出身の教員で、すごい腕の立つ人。彼の鉋捌きを見て、『この技術をマスターできれば一人前になれる』と皆、期待しました」。いよいよ職人の道が始まると高揚する稲本たちを待っていたのは、鉋の刃を研ぎと工具づくりばかりの日々。家具造りを許されず焦る稲本らは校長に直談判しますがそれも効なく、夏休みが近くなっても電動機械の昇降盤や手押し鉋盤の分解と組み立て直しばかりさせられていました。「私たちは焦る気持ちを抑え、刃の研ぎ方や工具の使い方を学びました。家具造りを学びたくて入った学校で、その一歩も二歩も手前のところで止まっている。最初はそう思っていましたが、今になって思えば、このとき秋松さんに基礎を徹底的に教わったことが私たちの糧になっていたのです」。

稲本、佃、下田は結婚しており、稲本は移住する直前に双子が生まれたばかり。稲本は雇用促進住宅に、佃は一軒家を、下田は部屋を借りて住んでいました。独身の庄司は、後に工房となる農家の納屋の2階での仮暮らし。皆、1日も早く技術を身に付け、生計を立てていきたいという思いが募っていたのです。この頃には、庄司が住む農家の納屋は、1階を工房に造り替えていました。家具造りのために用意した工房で、夜遅くまで工具をいじって秋松さんの教えを身に付けようと必死の日々を送っていたのです。
夏が過ぎ、後期が始まると状況は一変。秋松さんは稲本らが望むものを好きなように造らせてくれ、アドバイスもしてもらえるようになりました。彼らが望んだのは、無垢の家具の造り方。秋松さんは自分自身のいろんなエピソードを交え、時間を忘れて教えてくれました。時には朝の8時から夜の食事の後も教わるほどで、熱気のこもった授業は秋から冬へと続きました。
その成果は、すぐに現れました。高等技能専門学校の全国展があり全員が出品。庄司が最高賞の総理大臣賞、稲本が労働大臣賞、佃がデザイン賞と、上位三賞を飛騨高等技能専門学校が独占したのです。卒業式では全員が成績優秀で表彰され、秋松さんには涙ながらのお礼を伝え、晴れてプロとしての道を歩み始めることになりました。
「後で校長の髙松さんから聞いたことですが、校長も秋松さんも、髪の毛の長い、ヒゲを生やした若者は大嫌いで、私たちへの印象は良くなかった。しかも大学を卒業した者が何人もやってきて、本気で最後までやれるか試してみたと。夏まで本気だったら、夏以降はしっかり教えようという話になっていたそうです。」

新聞に取り上げられるなど地元の話題になる一方で、6人に課せられた試練は厳しいものでした。それでも、刃の研ぎ方、工具づくり、機械の手入れを徹底的に身に付けたことは、独立した工房を運営していく上で重要なスキルとなりました。さらに、秋松さんの指導により飛騨の匠の流れを汲む技術を継承できたことは、自分たちにしかできない家具造り、さらに後の木造建築につながる財産となりました。
1年間という、短いながらも濃密な時間を過ごした6人は、春の訪れとともにいよいよ納屋を改造した工房で注文家具を造って販売する活動をスタート。しかし、間もなく若栗峠から稲本とともにメンバーを引っ張ってきた藤門が抜け、稲本、佃、庄司、下田、稲本裕の5人で「オークヴィレッジ」を立ちあげることになるのです。