創業者たち。五人の若者の思い

オークヴィレッジで「オリジナル・ファイブ」と呼ぶ創業メンバーは、稲本正、庄司修、下田恒平、佃正寿、稲本裕の五人。

1972年、長野県大町市の若栗峠での山小屋建設プロジェクトで集まった10数名の中から、理想をカタチに変えようと敢えて苦難の道を選んだ五人です。1974年、彼らは岐阜県高山市に移り、木でモノ造りをしながら自給自足の生活を目指す拠点づくりを進めました。

「木でモノを造る」とはいえ、彼らは山小屋を一棟建てた経験しかありません。そこで高山市の高等技能専門学校に入学し、一年間、木工を基礎から学び、納屋を改造した工房を開設。一点突破・全面展開を合言葉に、まずは注文家具工房を始めますが思うように仕事は入らず、迷い悩みながらも鉋を研ぎ、木を削る日々が続きます。

「山小屋の会」の志を
継ぐ者たち

今もオークヴィレッジの拠り所となっている3つの理念は、若栗峠で山小屋を建て終わってから高山市で木工を学ぶ2年ほどの間に、何度も議論を重ねて固まっていきました。やりたいことはいっぱいあるけれど、初めからすべてを始めることはできない。そこで、まず目標を明確にしようと話し合ったのです。一つめは「お椀から建物まで」。最初は注文家具からスタートするけれど、そこで終わるのではなく建物まで造る工房になるという決意表明でした。二つめは「100年かかって育った木は100年使えるものに」。「木でモノを造る」自分たちの基本姿勢と言えるもので、森の恵みである木を敬う「木の文化」を大切にする思いも込められています。三つめが「子ども一人、どんぐり一粒」。"子ども"とは自分たちの製品のことで、製品を一つつくったら木を一本植えることを習慣にしました。大量生産・大量消費の社会はいつまでも続かない。持続可能な社会をつくることの大切さを、まず自分たちが実践しよう。そうした決意を込めて明文化された理念は、若栗山の「山小屋の会」に集い、志半ばで離れていった10数名の思いも受け継いだものとなりました。

「New Age of Oak」を開く

「オークヴィレッジ」という名前のヒントとなったのは、稲本が神田の古本屋で見つけた「Age of Oak」という1冊の家具の本。オーク材(ナラ)を使って塗装して仕上げた1500〜1600年代のイギリスの家具の本で、これに負けない家具を造りたいと思うようになりました。人間国宝の黒田辰秋さんがナラを使って黒澤明さんのために造った漆塗りの椅子の素晴らしさに出会い、メンバーは「この手法ならイギリス家具に負けない」と思い始めます。高山市ではさまざまな広葉樹が手に入りましたが、その中の「ミズナラ」は二束三文の雑木の扱いをされており、「このミズナラを使い、漆を塗って自分たちの家具を造ろう」と決めました。当時、借金をしてでも太いミズナラを仕入れたといい、その頃の材の一部は今も秘蔵材として保管しています。メンバーたちは、構想段階から既に世界を意識し、「ローカルからグローバル、飛騨から世界へ」という壮大な野望を描き、名前は英語にしようと決めていました。そこで、「ナラ」を使ってモノ造りをする工芸村、という意味を込めて「オークヴィレッジ」という名前になりました。300年以上の伝統を誇るイギリス家具の「Age of Oak」を超え、日本で「New Age of Oak」を開き、やがて世界へ出て行こう。若きメンバーたちの意気込みと工芸村への思いが、「オークヴィレッジ」という名前に込められているのです。

堅忍不抜の精神、「A Heart of Oak」

高等技能専門学校を卒業後、メンバーは農家の納屋に機械や工作台を入れて工房を整え、受注家具造りを始めました。1976年の春のことです。しかし、すぐに注文が入ってくるわけはなく、東京の知人を頼って売り込みもしました。最初の注文は稲本夫婦の仲人で、佃の父親である佃正昊氏が立教大学の総長をしていたときに総長室長だった中村太郎さんからでした。「応接間に置く立派な棚で、お金と時間はいくらかかってもいい」という仕事。皆で張り切って、3か月かけて仕上げました。それまでほとんど給料がなく、稲本らは失業保険で生活していたが、この時にもらったお金で初めて給料が入ったといいます。間もなく、地元の喫茶店から家具や内装の仕事理解者が増え、知人の伝で少しずつ注文が入るようになり、満を持して「オークヴィレッジ」を立ち上げました。そして、1977年、現在の地で工芸村の建設が始まりました。とはいえ、背丈ほども伸びた一面のススキを刈り取り、荒れ地を開墾するところから始める作業。工房やメンバーの住宅を建てる土地を整地し、道を付け、水を確保する。そして工房から順に建物を建てていく。しかも家具造りの仕事をこなし生計を立てていくというのは、なまやさしいことではありませんでした。

さらに、当時の工房にはまだ電話がなく、なかなか新しい注文も入ってこない。これから"工芸村"の立ち上げが始まると言うときに、給料が支払われるのは3か月に1度くらいという危機的な状況に陥ってしまったのです。新しい家具工房ができたことを聞きつけた家具問屋やデパートからの下請けの誘いがありました。目先の給料を払うために、合板やメラミン化粧板をのりで貼り合わせたような家具を造りお金を得るという誘惑に負けそうになりながらも、何とか正気を取り戻したということもありました。「そんなことをするために、こんな山奥に来たわけじゃない」。皆で励まし合いながら、「A Heart of Oak」という言葉を念仏のように唱えて鉋をかけ、堅忍不抜の精神で頑張り抜くことができました。1977年は、オークヴィレッジ創業以来の危機であり、貧しいながらも理念に生きることの大切さに気づいた一年となりました。

楢(オーク)の心は堅い

1977年の冬、雑誌の取材で作家の辺見じゅんさんがオークヴィレッジを訪れました。メンバーたちは、取材では調子の良さそうなことを話していたのですが、その実、思うようにできていない様を辺見さんに見抜かれたようで、帰り際にはご自分用の文机とタンスを注文してもらえました。さらに、弟の角川歴彦さんも紹介していただき、オーディオ・ラックの注文を受けました。これは、第一作の中村太郎さんの棚とともに、初期オークヴィレッジを代表する作品となりました。さらに、高山市の喫茶店(タレント・清水ミチコさんのご実家である「if珈琲店」)の内装を1軒任されるなど、自分たちがやりたいと思っていた仕事が次々に入ってくるようになったのです。
そして1978年の元旦、新しい年の方針を話し合う中で、もっと自分たちのことを知ってもらい、よりいい仕事を獲得したいという声が上がり、飛騨高山から都会に打って出る起死回生の展示会を開催しようという計画が持ち上がります。もともと高山で造ったものを都会で売るという考えがあったものの、日々の仕事に追われ、ともすれば見失いがちになっていたのです。秋を目処に東京で開催、場所は新宿の紀伊國屋書店のギャラリー。当てがあったわけではなかったものの、新たな目標ができたことでメンバーには活気がもどり、何が何でも展示会を成功させようという気運が高まっていったのです。
この年の4月、たまたま取材で訪れた編集者の伝で紀伊國屋の企画課の人を紹介してもらえ、稲本は着の身着のままで思いの丈を伝えに新宿に出かけます。その熱意が伝わったのか、「本屋で家具の展示会をする」という紀伊國屋でも初めての試みは、11月25日からと決まりました。そこからは注文の仕事と展示会用の作品造りという多忙な日々が始まり、毎日のようにメンバーの誰かが徹夜をするほどでしたが、だれもが愚痴も言わずに頑張ったのは、展示会を成功させ、自分たちの夢を実現できると信じてしていたからに他なりません。
飛騨の山奥で、集団生活を営みながら地道に家具造りに取り組む若者たち。東京では想像できない世界観。それは、都会に住むだれもが不安に感じ始めていた環境問題に対する共感を呼び起こし、10日ほどの会期の中で入場者は数千人を超し、新聞や雑誌の取材でも高い評価を受けました。
会場にはメンバーの家族や大学時代の旧友も訪れ、メンバーたちも初めての大仕事の緊張から解放されたひとときを過ごしました。また、放送作家でラジオパーソナリティーでもあった永六輔さんや作家のC.W.ニコルさん、俳優の菅原文太さんなど文化人、著名人も多く訪れました。永さんとニコルさんは以前からオークヴィレッジの活動を知っていたとのことで、メンバーたちは驚き、感動しました。また菅原さんはメンバーの活動に感銘を受け、後にオークヴィレッジの隣に土地を購入し、家を建て、住み始めます。メンバーにとっては隣人であり、友人であり、かけがえのない理解者・支援者となったのです。
木でモノ造りをする工房として東京デビューを果たしたオークヴィレッジ。ほとんどの作品が売約済みになったばかりでなく、3年先までの注文が舞い込むという、予想をはるかに超える成果がありました。メンバーは確かな手応えをつかみ、多くの出会いに恵まれた、まさに起死回生の展示会。そのポスターには、「A Heart of Oak」というタイトルとともに、「楢(オーク)の心は堅い。」という、苦難の時を乗り越えた彼らの自負と絆の強さを表す言葉が添えられていました。

菅原文太さんの旧邸宅(現在はオークヴィレッジの社屋として活用)