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マルセル・デュシャン
2018年11月15日 (木)

こんにちは、設計の藤塚です。

マルセル・デュシャン展を観てきました。

 

(マルセル・デュシャンと日本美術/東京国立博物館)

 

マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年 ~ 1968年)フランス。
マルセル・デュシャンは僕の中で、美術、音楽、建築というジャンルのなかで破格の人。
あくまで、『僕の中で』です。(越える概念は今のところ、無い、と思います。)

 

近代絵画とそれ以前から…

ルネサンスと言う最初は新しい時代精神が、その時代がくだり様式となり以降400年間、バロック、新古典主義などにその影響を与えます。

そしてクールベ(フランスの写実主義の画家:1819年~1877年)を境に、その先行する絵画理念に対して問題構成をもち、印象派で一つの新しいスタイルに結実します。その後、絵画概念の更新は続きます。(この時点で絵画表現の技術の革新から、絵画概念の更新、にスライドしています。)

 

その印象派以前のルネサンス絵画では、透視図法と言う視覚を統合する決まりと言うか理念があり、その下に3Dを2D内に表現する。または、2Dで3Dを伝える。

 

そして表現するその対象は、寓話や、大小様々な政治的なアジテーションが含まれていました。が、そのような中でも表現するその技術に対する追求がありました。

 

そこから、色々なパラダイムシフトが起きます。
パラダイムシフトです。技術とか、思想とか政治理念とか経済構造とかそこに付随する人々の生活とか。色々、色々、全てです。全てをひっくり返し無効にするシフトチェンジです。(それがパラダイムシフトなのです。)

 

絵画の世界では、時代のパラダイムシフトが起きたがゆえにその対象も、主題も理念にも、自律性が要求されます。だからこれまでのクライアントと請負業と言う関係性は商業ベースのステージに移行し、芸術と言うステージではなくなるのです。

 

そしてその商業ベースの絵画のなかには、技術革新によるカメラ・オブスキュラと言うカメラの前進が開発され、それによる素画をベースとした、商業ベースのヴィジュアルも描かれるようにもなります。
カメラ・オブスキュラを利用すれば誰でもある程度リアルな絵は描けるようになり、つまりルネサンス絵画で追求された、対象をリアルに表現する事、には価値がなくなってゆきます。

 

と同時にルネサンスの透視図法による視覚表現はもはや自明の共通感覚、または共通認識にもなっておりそこに対する再考に発展して行きます。
それは、対象と知覚による表現との差異を意識的に認識し、それを戦略的にいかに抽出するか?というコンセプチュアルな問題提起に発展して行きます。

その第一号が印象派と言って良いと思います。そこからセザンヌを経てキュビスム、シュルレアリスムなど次々と絵画概念の更新が進みます。

 

ピカソのキュビスムは、ルネサンス以降、ある意味自明となっている視覚の統合を一度解体し、再構成する、と言う概念による絵画で、それがいかに可能か?と言う思考実験とも言えるかもしれません。

その事を俯瞰すると、表現する対象と、表現する為の概念=抽象の仕方との間の剥離、が知らずのうちにたち現れていたと言う、ある意味『差延』のようなもので(いや初めから、古代からあったのか?)それをどのように解決するのか?という問い、かもしれません。

さらに、それを言い換えると、考えて行く過程で出てきたそのような何ものにも回収され得ない『知覚の宙吊り』状態を相起させる事が、19世紀以降の芸術の命題なのかもしれません。(自律の裏返しです。)

 

マルセル・デュシャン:レディメイド

マルセル・デュシャンはそのような中、価値としてはフラットな工業製品-量産品である小便器をセレクトし、その小便器に『泉』と題名をつけ、『R.Mutt』と署名して美術館に展示しました。言い換えると創作活動をせず、オブジェクトをセレクションし、それを美術-芸術言う概念の文脈(コンテクスト)投入した、と言う事です。(実際には展示を拒否されます。)

 

Wikipediaより

 

何が起きたか?と言うと、芸術に対する考え方の、考えてもいなかった箇所を、思ってもいないところから照らし出された、と言うようなところでしょうか?しかも、それを直視しない訳にはいかない、と言ったような。

端的に言うと、このような行為によるオブジェクトを芸術品として扱って良いのか否か?このような行為は芸術なのか?と言った問題構成で、それは裏を返せば、芸術という概念が、自明のうちに設定されているのではないか?

そしてもはや制度化していないか?と言う問題の構成です。

なので、その行為と『便器』は、マルセル・デュシャン以前の芸術のカテゴリーには属されず、このような問題構成を認知させる手段にすぎません。それ故に判断不能で、思考の『宙吊り』の状態を引き起こしたのです。ピカソすらも一気に飛び越え。

このどこにもカテゴライズできないその状態。
それが芸術、なのかな?と思います。

 

マルセル・デュシャン以降

ポップアート、コンセプチュアルアート、シミュレーショニズム、そして、芸術と言うコンテクストに投入すれば、芸術じゃん?と言った様相。

 

 

音楽の世界では、マルセル・デュシャンを意識はしていませんが、サンプリングミュージックが80年代に現れます。今現在のポピュラーミュージックは、このサンプリングと言う手法無が無かったら、何ら説得力がありません。(マルセル・デュシャンの便器は、サンプリングです。)

建築の世界では、80年代にポストモダン建築が現れます。このスタイルも、過去のスタイルのサンプリングによるアッセンブルだと思います。

そう、マルセル・デュシャンを参照しようと、しまいと、マルセル・デュシャンは、1914年にレディメイドと手法を確立し、それは只今の文化の全てのジャンルの様相を予見していました。

今のところ、誰も越えてない、と思います。

あえて言うなら、ダミアン・ハースト(イギリスの現代美術家:1965年~)、です、が。

マルセル・デュシャンのした事は、芸術というジャンルのなかのパラダイムシフト、だ、と思うわけで。(あくまで僕視点で。)

多大な評価を得ていますが、それでも、足りない、と思う、マルセル・デュシャン展でした。

ではでは。

 

藤塚 俊彦(設計監理)

 

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